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ホリエモンを研究する

ホリエモンことライブドア社長の堀江貴文さんについて知りたいと思っていた。
そんなところにソフトバンクのSB文庫が、堀江氏の「100億稼ぐ仕事術」を出していたので買って読んでみた。

読む前から予想はしていたが、私には役に立つところはなかった。
最初から堀江氏の考えを知りたかっただけだから、問題はない。
この本に書かれていることは、堀江氏以外は実行できない堀江氏の仕事術であると思う。

堀江氏の信念の強さと、行動に移す早さ、それらがどういった考えから来ているのかを知ることができた。
その考えの中で、ひとつ共感できたことがある。この本で唯一うなずいたところだ。

 テレビを見たり、ビデオやDVDを鑑賞するのもオフにしかできないことである。自宅にはホームシアターセットや、大画面のプラズマテレビも購入した。週末のオフの、その中でもたまにしか使わないけれど、そういうちょっとした贅沢こそ、消費の本質である。それをないがしろにしてしまうと、心の豊かさや本当の意味での生活の豊かさが失われかねない。創造するためにはちょっとした無駄も必要だし、ビジネスで成功するには、消費行動を自分から盛り上げていって市場を活性化し、景気を良くしていくことは無駄ではないはずだ。

ちょっとした贅沢は、こだわりを持ったほうがいい。そして妥協をしてはいけない。
私もホームシアターを構築している。スピーカーとプレーヤーはちょっと気合いを入れて、ちょっといいものを使っている。

こういったものは、安物ではダメなのである。
普段の生活を忘れて、鑑賞するものの世界に浸り切れないと意味がないのだ。

だからこだわりを持って本物を選ばなければならない。できる限りいいものを使うべきだ。
そうすることが、堀江氏の語る心の豊かさにつながると信じる。

私はホームシアターを組んでから、映画の楽しさと迫力を再認識した。
そして映画の世界に浸る楽しみを知った。映画は観るものではなく、その世界に入り込むものである。

堀江氏はどういったものを鑑賞しているのだろうか?ちょっと気になった。

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皇太子の誕生日会見とホリエモン

ちょっとネタとしては遅くなってしまったが、皇太子様の誕生日の会見を見て、ホリエモンことライブドア社長の堀江貴文氏のことを思ってしまった。

皇太子様は、「話し合いが大切である」というようなことを発言されていた。
突然、自分の考えていることを何の前ぶれもなく発言してしまったことを、少し後悔しているように感じられた。

話し合いをせずに突然行動したという点で、最近世間をにぎわせている堀江氏を思い起こした。

堀江氏も皇太子様のように、後悔または反省する日が来るのだろうか。今のところそれはわからない。
ただ私は、そんな日はずっとずっと先のことにしてもらいたいと願っている。

私の目には、堀江氏は日本の危ういところを突っついて、いかに危険であるかを実践して見せてくれる、貴重な教師と映る。
危ういところは、どんどん突っついてもらいたい。

もしニッポン放送の株を買ったのがライブドアではなく、フジテレビが足元にもおよばないような資金力のある企業だったらどうなっていたのだろうか。
しかも外国の。
それを考えると、ホリエモンで良かったと思わざるを得ない。

だから堀江氏には、これからも教師としてがんばってもらいたい。
のほほんとしているところに渇を入れて、世の中を良くしてもらいたい。そう切に願っている。

それにしても悲しいのは、堀江氏のビジョンが聞く耳を持たれていないことだ。
プロ野球界に、新規参入しようとしたときもそうだったが、熱く自分がしたいことを語っていても、聞かれることはなかった。
今回のニッポン放送でも同じだ。ラジオとインターネットの結びつきを語っても聞かれない。

「こいつ何かおもいろいこと言わないかな」という好奇心はないのだろうか。

話し合いをして、堀江氏のアイデアだけでも盗んでやろうという根性がないのもどうかと思う。
門外漢は口を出すな。気に入らないからどっか行け、といった感じが強い。
この閉鎖的なところは、どうにかならないのだろうか。

まぁ堀江氏の行動も、「もうちょっと要領よくできないものかねぇ」と思うところが多すぎるが。

とにかく、しばらく堀江氏の動向から目が離せそうにない。
というか、堀江氏の行動に反応する人たちから目が離せない。
そこから今の日本のダメなところが手に取るようにわかるからだ。

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なじめないイエスの「危機」でブログのコメント機能について考えてみた

音楽関係のブログには、なかなかいいと思うものが少ない。
探す時間が惜しくて、真剣に探していないからかもしれないが、印象としてそう感じる。

でもおもしろいブログを見つけてしまった。
その名は言黙(ことだま)である。
まだ聴いていないロックの名盤、初めて聴いたロックの名盤について記事を書いている。

このブログのユニークなところは、まだ聴いていないロックの名盤について、いろいろな人からのコメントを募集しているところだ。
ブログのコメントの機能を有意義に活用していると感じたのは初めてである。

いろいろな人からの意見を読んで、買って聴いてみるか、それともやめるべきか判断する材料にするのである。
世の中で名盤として知られているものに対して、たくさんの意見が寄せられている。
それらを読んでいると、なるほどと納得するものや、そういう聴き方もあったかと新たな発見があって、参考になることは間違いない。

なんと言っても、遠慮のない率直な意見が多いのが素晴らしい。
今日の時点での最新の記事、聴いてみた 第6回 イエスにもコメントがたくさんついている。

それらのコメントにもあるように、私はイエスなら「危機」よりも「こわれもの」の方が好みである。
「危機」は、なじめなかったという感じがある。何度か挑戦したのだが、だめだった。
もしかしたら、今聴いたらしっくり来るかもしれない。

先日EL&Pを聴いてみたが、高校生の頃死ぬほど夢中で聴いていたのに、良さを感じなかった。
音楽の趣味が変わったからだろうか。それともプログレが時代に合わないのだろうか。

でもピンクフロイドは変わらず好きで、たまに聴いているのでプログレとひとくくりにはできない気がする。

言黙(ことだま)は、バックナンバーをさかのぼって読んでみようと思う。
そんなふうに思うブログも少ないように感じる。

超名盤と言われるものでも、聴いたことのないものはけっこうあるものだ。
言黙(ことだま)で「聴いてみたい!」と心から思える名盤に出会えるのを楽しみにしている。

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「インターネット的」を読んでブログを書く理由を改めて考えた

昨日に引き続き、糸井重里著の「インターネット的」を読んで感じたことを書きたいと思う。
気になった文章があったので、引用してみよう。

 いま思っていることは、新鮮なうちに、いま言ってしまわないと、ほとんどが消えてしまうのです。その程度のことで消えてしまうようなものはたいしたものじゃない、という言い方もできるのですが、試しに語ってみる、とりあえず始めてみることによって、アイデアやクリエイティブは膨らんだり転がったりして、大きな何かに化ける可能性があるのです。

私がブログを書いている理由は、この文章に集約されている。
私は自分で言うのはなんだが、消えてしまうにはもったいないことをいろいろ考えているのだ。

考えるだけでは、何かを生み出すことも、アイデアとなることもない。
まして膨らんだり転がったりすることは絶対にありえない。

そうは言っても、考えていることを的確に文章にするというのは難しいものである。
こうして今も、その難しさと闘っている。

でも大きな何かに化ける可能性を信じている。続けていれば、必ず変化が起こるだろうと思っている。
このブログも、スタートしてもうすぐ2ヶ月になるが、まだ何も見えてこない。

最近の私の変化は、ものすごい勢いで本を読むようになったことだ。
通勤の行き帰りの電車の中だけだが、集中して読んでいる。
インプットしなければ、アウトプットはできないと痛感しているからだろう。

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インターネット的

糸井重里著の「インターネット的」を読み終えた。
「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を読んで、もう少し糸井さんのインターネットに対する考え方を知りたいと思ったのだ。

「インターネット的」がどのようなものか、そういった考えかということは残念ながら理解できなかった。
なぜかというと、私のインターネットに対する考え方やイメージが、ぐらついているからだろう。

こうしてブログを書くようになって、私のインターネットに対する考えに変化が出てきた。
それを自分自身が把握できていないのである。
今すぐ把握しなければいけないということもないし、絶対に把握しなければならない、というものでもない。

気長にかまえていればいいのだが、この本を本当の意味で読めたと感じたのは、前半だけだった。
私が読むには時期尚早であったようだ。

今までインターネットについて、深く考えることなく関わってきた。
ただ漠然と情報を受け取っていたのだが、ブログを始めるのをきっかけに、自分にとってインターネットとは何なのか、ということを考えるようになった。

糸井重里さんは上記の著書で以下のように書いている。

 インターネットは、「伝える仕組み」です。いわば、人間の生み出す情報という「料理」をすばやくどこでも届ける「お皿」です。ほんとうは、一番面白いのは、お皿に何をのせるかということのはずです。

私は今、このお皿に何をのせるかということを、毎日真剣に考えている。
このことを考えることによって、ちょっとずつではあるが感覚が鋭くなっていくのを感じる。

たとえホームページやブログを運営していなくても、インターネットのコンテンツから感じたことを深く追求してみたり、考えてみるだけでも、意味があると思う。
感じたことに対して、かなり意識的にならないと情報の中に浸っているだけになってしまい、もったいない。

今私は、上の引用で言うところの料理を探す方法を探している。おいしい料理を味わいたいのだ。
いいお店を見つけるのと同じように、いいサイトやブログを見つけるのは難しい。

いい料理に出会って、いい刺激を受けて「考えるきっかけ」にしたいと思っている。

「インターネット的」の中に登場するものをまとめたブログの記事があった。
私がメモしておこうと思ったことがほとんどあるので、リンクしておきます。
ここにある本を、近々読みたいと思っている。

リンクの図書館の読書サーフィン 『インターネット的』 糸井重里 から広げる世界

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くりろぐとニュースJAPAN

昨日紹介したフジテレビのニュースJAPANのキャスター、滝川クリステルさんを考察するくりろぐ
見てみるうちに、初めからできがよかったわけではないことに気づいた。

続けていくことによって、レベルが上がっているのがわかる。

::kelloggというブログのぎゃ!!という記事に

2004年08月の頃に比べてキャプチャーの質が上がってるし・・・。

と書かれているが、キャプチャーの質だけではなく、文章もおもしろくなっている。
2004年08月の頃は、毎日似た感じの内容で同じように書かれていて、単調なイメージになっている。

ところが最近の記事になると、とにかくはじけている。とても同じ人とは思えない。
すべてにおいて上達していて、明らかに観察眼が鋭くなっているのだ。
私も続けていれば、レベルアップできるのだろうか。見習いたいと思う。

さらにmedicoの日記というブログを見て、なるほどとうなずいてしまった。

滝川クリステルは何となく色っぽいなぁ、と思っていたのですが、上のクリステルを日々キャプるサイトを見てその理由がわかりました。それは首のラインと背骨のラインがくの字?になっていることに起因する色気だったのです。このラインは直立であることが多いアナウンサーの姿勢とは一線を画しておるな、と思ったしだいでございます。

そうか、そういうことだったのか!今まで何だか気になっていたのは、そのせいだ!!
きっとまっすぐに座っていたら、たいして気になってはいなかっただろう。

だいたい「ニュースJAPAN」という番組は、ニュース番組にしてはかなり異質な番組である。

まずはカメラアングルが変だ。普通ではない。キャスターをまっすぐねらうことはあまりない。
特に松本さんとクリステル姉さんのツーショットがすごい。

松本さんがちょっと遠めで、クリステル姉さんが手前にいるという構図。
これによって、野暮ったさが払拭されている。
クリステル姉さんの魅力を引き立たせ、視聴者を画面に注視させる効果を出している。

もっとすごいのが、報じるニュースの偏り具合だ。
今までの常識で考えたら、扱うニュースの内容が偏っているのは問題であった。
しかし聞きたくもないキャスターの考えを、長い時間聞かされるよりはよっぽどましだと、私は思う。

最近はひたすらアメリカと北朝鮮の関係を扱っている。
これも続けるということで見えてくるものがあると思う。地味ではあるが骨のあるニュース番組だと感じている。

しかも25分という時間設定が絶妙だ。15分だと内容が薄くなってしまうし、30分以上だとすべてを見るのは難しくなってくる。
他局の長いニュース番組って、全部見てる人ってどれくらいいるんだろう。
この記事も長すぎて、全部読まれなかったりして。

※くりろぐに敬意を表して、滝川クリステルさんのことをクリステル姉さんと呼んでます。

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滝川クリステルさんとブログの究極の形

「日本全国・見たいもんはみたいぞの会」というブログを見ていたら、こんな記事を見つけた。これこそがクリステルだ!
この記事のリンクのくりろぐというブログが、とにかくスゴイ!!

このブログに、ブログのひとつの究極の形を見たような気がする。

毎日の滝川クリステル姉さまについて考察を重ね,熱き血潮を滾らせるweblog
というサブタイトルが表すように、フジテレビのニュース番組「ニュースジャパン」のキャスターである滝川クリステルさんを観察しまくっている。

それだけならたいしたことはないと思うのだが、観察眼の鋭さ、分析の内容の濃さに感心してしまう。
さらに継続することによって、データベースとしての価値まで生まれていて圧巻である。

テレビ映像をキャプチャーし掲載しているのだが、その画像の選択がとにかく秀逸である。クリステル姉さまの魅力が感じられるような画像が選ばれている。しかも質がよく、きれいで美しい。

クリステル姉さまの登場時間は、25分という番組の中でもごくわずかである。そんな中から、「これだ!!」という画像を選ぶだけでも苦労が偲ばれるというものだ。

文章もちょっとHなことを書いていたとしても、嫌な印象を受けないギリギリのところで抑えられていて巧みさを感じる。
なんと言っても、文からクリステル姉さまへの愛がひしひしと感じられるのである。

単なるストーカーになってしまいそうなところを、これらの要素が上手くかみ合って楽しめる内容になっている。
このブログを見ると、ニュースジャパンを見るのが楽しみになるだろう。毎日、ニュースジャパンの時間が待ち遠しくなりそうだ。

さらに秀逸なのが今日の記事の赤ペンの出所は!クリステル姉様!
スポンサー紹介の裏の、しかもクリステル姉さまではなく松本さんにまでチェックを入れている。脱帽です。

滝川クリステルさん、私の中ではちょっと気になる人から、とっても気になる人に昇格しました。

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こんなコミュニケーションがあったなんて

表題のとおりに、「こんなコミュニケーションがあったなんて」と驚きを隠せなかった。

webdogのSNSに子供を入会させろ!早いうちに耕せ!U18を逃すな!という記事で紹介されている記事を読んで驚いたのである。

それは、読冊日記というサイトのぱど厨になってみるという記事である。

ぱどタウンというサイトにある、小中学生向けの掲示板について書いている記事なのだが、小中学生がどのようにインターネットを利用しているのを知ることができる。

つまり彼らは、お互いに相手の掲示板に書き込むことによって会話を交わしているのだった! なんと面倒なことを、と思わず呆れてしまったのだが、これはつまりケータイメールによるコミュニケーションの流儀をそのまま掲示板に持ち込んだものであり、彼らにとってはこのやり方が自然なのかもしれない。

こんな面倒くさいことをするのは、私には信じられない。どうやら暇だからできると言えそうだ。
試しに「住民センター」という掲示板を実際に見てみたのだが、とにかく「暇」と文字の多いこと多いこと。

自分の掲示板への書き込みの返事を、相手の掲示板に書き込むという使い方は、私にはとうてい思いつかない。
まず、その仕組みを見ただけで理解できるかどうか、あやしいところである。

ましてやチャット相手が浮気することを禁止するだなんて、とても信じられない。

どうやら、彼らは、友だちや、彼氏彼女を「取られる」ことを恐れているようだ。すなわち、「はしご」をされて自分のぱど友やぱど彼の掲示板に書き込まれた場合、「とられた」という気分になるのではないか……と推察したのだけれど、これが正しいのかどうかはよくわからない。
この文章を読んで、私もそうなのだろうと考えることはできるが、理解ができなかった。 ネット上での話し相手に対して、独占欲を抱くというのはどういう感覚なのだろう。本当にさっぱりわからない。

昨年、小学生が同級生を殺害するという事件があったが、それを思い出してしまった。

この事件の発端は、確かネット上で悪口を書かれたというようなことだったと記憶している。
どうやらこの年代の人たちはネットでのコミュニケーションをかなり重要視しているようである。しかも私の想像もできないレベルで。

この世代の人たちが社会に出るときに、どんなコミュニケーションをするのか、恐ろしくなってしまった。

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大人のための文章教室(2)

ふたたび、清水義範著の「大人のための文章教室」について書きたいと思います。

文章を書くときに、いつも気をつけていることがあります。それは文章のリズムです。
文章のリズムがいいか悪いかで、読みやすさが変わってくるし、頭にすんなり入ってくるかが決まると思います。

この本でも、文章のリズムについて書かれています。

ブツ切り短文ばかり並ぶのも幼稚だし、長文ばかりでは読みにくい。では、どうすればいいのかだが、結局それはリズムの問題なのである。短文と長文が程よく混じっていて、読んでいくと心地よいリズムが感じられるというのが理想である。

私はこの理想に近づけるために、自分の書いたものを音読するように心がけています。
音読すると、リズムの悪いところが手に取るようにわかります。口に出して読んでみて読みにくいところは、たいていわかりにくい文章になっていることが多いです。

とはいえ、いつも音読ができる状況とは限りません。そういう時は声に出さないまでも、口を動かしながら読んでみるようにしています。
はたから見ると奇妙に見えるのが難点です。人目が気になる状況のときは、仕方がないので何度も黙読で読み直すしかないでしょう。

この本では、<だ・である>体と<です・ます>体についても書かれています。これについては賛成できかねることが書いてありました。

我々のような一般人は、あくまで<だ・である>体で統一するのが正しい書き方のようである。
というように、<だ・である>体で書くことをすすめています。

ただ私は常に、「読んでもらう」「読んでいただく」という意識があるので、<です・ます>体で書くようにしています。<だ・である>体は、私にはちょっと強すぎる表現です。

だから、

誰に向けて書いた文章なのか、どんな気持ちで書いた文章なのか、などによって違う。それが手紙なのか、日記なのかによっても違う。更には、その文章を人に読まれた時、どんな人間だという印象を与えたいかによっても違う。

と書かれているように、書く人が選択するものだと思います。
この「どんな人間だという印象を与えたいか」というのは非常に大切だと思います。これが文体を決定付けると言い切っても、問題ないと感じています。

<です・ます>体で書いているなら、すべてをそれに揃える。<だ・である>体ならばすべてそれで、というのが原則である。それが入り乱れると、文章が幼稚になり、筆者の心の乱れまで見抜かれる。

この点だけ気をつけていれば、問題ないでしょう。
<です・ます>であろうが、<だ・である>であろうが、読みやすく、伝えたいことが正確に伝わるように書けているかが、もっとも大事なことです。
そう考えてみると、書きやすいほうで書けばいいと思っていますが、間違っているでしょうか。

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大人のための文章教室

今日は今読んでいる、清水義範著「大人のための文章教室」について書きます。

この本もブログ研究のひとつとして読んでいます。
ブログの記事は誰かが読んでいるものです。読んだ人が、少しでもわかりやすい文章が書けるように、という気持ちからこの本を手にとってみました。

まだ読んでいる途中ではありますが、役に立ちそうなことがちょこちょこ書いてあります。気になったところを、少し引用してみたいと思います。

 こちらの情報が正しく伝達されることはまず第一の目的だが、それだけではなく、相手に同意、同感させることが文章の二番目の目的である。  そして、相手をこちらの希望するように動かすのが、文章の究極の目的なのだ。  動かすと言うといやらしいようだが、文章とはそういう欲望を持っているものだ。その欲望がちゃんと満たされるように書く、というのが、文章の技なのである。

まさにそのとおり、と納得してしまいます。その技を、この本を読んでいったら習得できそうです。

この本で書いていることは、たいていはすでに知っていることが多いと思います。ただ心底理解しているか、納得できているか、実践できるか、というと疑問です。

でもこの本では、すばらしい実例が納得させてくれるのです。ああしろ、こうしろという紋切り型の書き方ではなく、自分にあった書き方を考える手引きとなるような内容です。

文章を書くときの意識について、あらためて考えさせられます。
特に接続詞について書かれている部分には、とても感心させられました。実例と解説が一体となって、これ以上ないくらいの理解を得ることができました。
この部分を読むだけでも、価値があると思います。

 接続詞なんて単なる文章のつなぎ役、と思っている人がいるかもしれないが、そうではない。接続詞があるから、文章は展開でき、つながっていくのだ。そしてそのつながり方、それを私は論理構造と言っているのだが、それを決定しているのが接続詞である。

この本では、接続詞がなくても文章の内容は伝わるということも説いています。要所にうまく使って、効果をあげられるように研究したいものです。著者はこんなふうに書いています。

接続詞をどう使えばいい文章になるかの技は、頭の中では大いに意識しつつ、実際にはあまり使わないこと、なのである。

この大いに意識するというのが重要だと思います。接続詞をうまく使うことを意識するだけでも、文がちょっと読みやすくなると感じます。さっそく実践したいです。

本の中で、「岩波講座日本語6 文法I」を引用している部分があるのですが、いろいろな接続詞を分類して列記しています。私が使う接続詞が、いかに限られているかがわかりました。
これを機会に、いろいろな接続詞を使えるよう訓練します。とりあえずその引用を書き出して、モニターの近くにでも貼っておこうと思ってます。

この本に関するブログで、バックギャモン日記 ~ Yazawaです、というブログの大人のための文章教室という記事が、わかりやすくよくまとまっているので、おすすめです。

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阿久悠の日記本から学んだこと

ふたたび、阿久悠さんの著書「日記力『日記』を書く生活のすすめ」(講談社+α新書)について書きたいと思います。
今日は気になった文章を引用したいと思います。

 時代の風を読むということは、そのとき流行っているものをとらえるということではないんです。ましてやブームに乗って、それを書こうとするものでもない。むしろ、その逆で、今は人気がないけど、それは大事なことではないか、耳をすませばその声が聞こえてくるのではないか、ということのほうを大切にするべきです。

これをそのまま実行するのは、私にはちょっと難しそうです。今人気のないものに目を向けるというのは、難しいことだと思うのです。
どうしても流行っているものが目にとまり、耳に入ってきます。

今人気のないものというのは、今存在感が薄くなっているものだと思うのです。そういうものに目を向けるのは、何倍も労力がかかるでしょう。

それにただ漫然と日常を送っているだけでは、そういったものには普通は気付かないものです。
でも、今流行っているものと相反しているものについて考える、ということならできそうです。
流行っているものに流されることなく書いていこう、というくらいの意識でいようと思っています。

 大好きなものはこれ、絶対に嫌いなものはこれ、ということがわかるかどうか、簡単なことのようですが、大事なことだと思う。日記をつけるという行為は、「自分のことがどれくらいわかっていますか」という確認でもあると思いますね。好き嫌いの感覚は大事にしたほうがいい。ただそうはいっても、「これはあなた、修正しなければ生きていけないよ」ということであれば、どうやって修正しなければならないのか、日記を書き続ければその手だてを見つける手引きにはなるんじゃないでしょうか。

「自分自身を自分が理解するための手助けにしたい」というのが、私がブログの記事を書いている最大の理由だと思っています。
好き嫌いの感覚はもちろん、自分の生き方など、書くことによって考えをはっきりしたものにすることができます。

それによって改善点、修正点に気付いたり、新たないい考えが浮かぶこともあるのではないかと考えています。

天候にしても何にしても、「昨日」と「今日」が劇的に違うということは、ほとんどない。気温にしても、せいぜい一度とか二度の違いです。ところが、一週間経ってみたら、何度変わっていたかということがわかる。このことこそ、日記の価値のあるところだと思います。  天気や気温の変化ばかりでなく、正義感であるとか、幸福観が変わっていく様さえも読みとることができます。同一人物であっても、そのいい回しは、日々微妙に変化していく。あまりにも微妙な変化であるため、その場では気がつかなくて当然でしょう。日記をめくって振り返ったとき、初めてそれがいつごろから、「あっちからこっちの線に移行してたな」ということに気がつくのです。

この文章は、長い間日記を書きつづけてきた人だからこそ、出てくる言葉だといえるでしょう。

私は長く書きつづけることによって変化に気付く、という経験がありません。だからブログを長く書き続けて昔の記事を読んだ時に、変化した自分と比較する日が来るのを楽しみにしています。

そこまで達するには、いったいどれくらいの年月が必要なのでしょうか。とにかく今は続けるのみと感じています。

 続けることがなぜ大切なのかというと、続けることによって違う方法論を編み出さなければ続かなくなってくるということなんです。また、続けることが一つの刺激にもなってくる。継続のためにおりおり新しい方法論を考える、自分を刺激する努力をする

幸いにも、私はまだ違う方法論を編み出さなければいけない状態には、なっていません。
「継続のためにおりおり新しい方法論を考える、自分を刺激する努力をする」ということは、無意識のうちに実行している気がします。
これを実行するだけでも、毎日が少しおもしろくなっているのが感じられます。

いろいろなことに対してアンテナを張る。受信したものを深く追求してみる。
それがこのブログの今のスタンスです。とりあえずはこの方法でいこうと思っています。

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ブログは日記か否か、日記を研究する

ブログを始めるときに、「日記にはしたくない」と思って始めました。

ブログについて、いろいろと調べたり、読んだり、何より自分で記事を書くようになって、ブログは日記であるという認識に変わっていきました。

なぜ変わっていったかというと、日記にはいろいろなスタイルがあって、それは人それぞれであるという考えが強くなってきたからです。

日記には決まった形式はないのです。
どんな形式でも、どんな内容でも日々を記録していたら、日記と言えるのではないかと思うようになったのです。

つまりブログは日記の一種であろうと考えるようになってきたのです。
それならば、一度日記を研究してみようということで、ブログの研究と一緒に日記の研究も始めてみました。

そもそも、なぜ「日記にはしたくない」と思ったかというと、日記に対していいイメージを持っていなかったということがあります。
日記は今まで、私にとっては書かされるものだったのです。
学校で先生に書きなさいと言われて書く。そういう感覚しかありませんでした。

日記の研究の手始めとして、阿久悠さんの著書、「日記力『日記』を書く生活のすすめ」(講談社+α新書)という本を読み始めました。

この本は「ブログの力」という本で紹介されていて知りました。
今まで、私がイメージしていた日記とは、全く考え方の違う日記について語られています。
この本で気になったところは、また今度紹介したいと思います。

この本に関するブログでは、too highというブログの日記力『日記』を書く生活のすすめ 阿久悠という記事が、とてもいい分析をしています。

その中で最も気になったのが、次の文章です。

”自分が情報をどのように受け止めてきたか?”という記録として、 ブログを考えればブログネタのひねり出しにも気楽になるのではないで しょうか?

今の私がブログの記事を書く時に、最も気を使っていることが、この”自分が情報をどのように受け止めてきたか?”ということです。

同じ情報を受け止めるのでも、時間が経つと受け止め方が変化するのです。
だからその時点でどう感じたのかを、記しておきたいと思うようになりました。

「いいブログだなぁ」と感じるブログは、どのように受け止めたのかということを、懸命に表現しているブログのような気がします。

備忘録のようなブログの存在を否定はしませんが、インターネットに公開することに意味があるとは思えません。
備忘録ならば自分のパソコンで見れればいいわけで、いろいろな人に見てもらう必要はないのです。

これからも今までと同じスタンスで書いていけばいいと確信できました。日々感じたことを記していきたいと思います。

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ほぼ日刊イトイ新聞の本(3)

ほぼ日刊イトイ新聞の本を読み終わりました。
こんなに楽しく読んだ本は久しぶりでした。ほぼ日刊イトイ新聞の開設当時の熱気が感じられて、私もちょっと熱くなるのを感じることができました。
インターネットの可能性を探る糸井さんの一貫した姿勢が、ほぼ日の魅力となっていることが痛感できました。
こうしてブログをほぼ毎日書いている私にとっては、とてもよい教科書となったと思います。

いまは、というか、これからは、「幸福観」を選び合う時代なんだと思う。お金をたくさん持つことがしあわせだと思う人が、たくさん持つことをしあわせだと思わないという人を選んだら、ややこしいことになりそうだ。企業についても、政治家についても、どういうもの、どういうことを「幸福」だと考えているかをプレゼンテーションしてくれないと、選んでもらえなくなる。 「あの会社の『幸福観』が好きだから、私はこのクルマに乗るのよ」というようなことを、いまの人たちは、無意識にやっていると、ぼくは思う。

文庫版で追加になった第八章を読んでいて、気になったのがこの文章です。
最近、自分の「幸福観」について考えることが多くなっています。他人の幸福観と自分の幸福観が、一致することもなければ、似ているということも少ないということを感じます。

昔は似た幸福観を持った人が、身近に何人かいたと思うのですが、今は幸福観が多様化しています。だから幸福観は人によって違うといえます。

恋人や夫婦の間でも違うのが、今の時代だと思います。だから自分の幸福感を持つことが大切だと思います。
生きていくということは、この幸福観をとことん突き詰めていく作業なのではないかと考えています。

自分の幸福観を確立して、それに向かってひた走っていく。それが私の人生である。というひとつの結論めいたものを、最近感じています。自分の幸福観は、まだ定まっていないのですが。

今日の本というブログのほぼ日の本、読了。という記事にこんな言葉がありました。

Webサイトが雨後のタケノコのようにポコポコと世に出てきて、インターネットの使い方をほんとに多くの人が考えて、昨年あたりは停滞していたと思う。それが今年に入り、Blogを使ったコミュニケーションが注目されている。そんな今だからこそ、この本にうまく出会えたのかもしれない。

私もブログについていろいろ考えていなければ、この本に出会うこともなく、手に取ることもなかったと思います。
ほぼ日刊イトイ新聞の本は、Webサイトに関する本ですが、インターネットを利用している人は、一度読む価値のある本だと思います。
この本を読んだことで、自分のインターネットへの関わり方が少し変わりそうな気がします。

※引用したブログの記事は2004年12月20日のものなので、今年というのは2004年のことです。

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復刻版キャンパスノートのブログ考察(9)

今日は復刻版キャンパスノートのブログ考察(8)にトラックバックをしていただいた、WINTER WONDERLANDというブログのコクヨの「キャンパスノート」という記事を紹介します。

「コトバ」を使う生き物である人間にとって必要不可欠な道具とも言えます。だからこそ、そこには様々な工夫とアイディアが投入されていますし、使い手としての思い入れも深まるというもの。
ノートに様々な工夫とアイデアが投入されているということは、あまりにも当たり前であるために普段はほとんど意識することはありません。

でもキャンパスノートを改めて見てみると、さりげないこだわりを随所に感じられます。そして、その完成された姿に感心させられます。
人によってその感心させられるポイントは異なるでしょう。それは使い方によって変わるものでしょう。

復刻版の発売を機会に、キャンパスノートを観察してみるのもいいでしょう。道具としてのノートを再認識させられると思います。

私は今まで道具としてノートを意識したことは、あまりありませんでした。ところが今回この考察を続けていくうちに、いろいろなブログに出会って、道具としてのノートという考え方を得ることができました。

ものすごく当たり前のことのようですが、意識していないのと意識しているのでは使い方が大きく変わると思います。
これから自分のノートの使い方が、どのように変化するのか楽しみです。

学生の頃に比べれば最近はノートの消費量は激減してます。でも自分の手で何かを書く、という行為は頭の中を整理する意味でもすごく大切だと思うんですよね。PCのエディタで文章書くのとは全然性質の違う何か。そう、そこには「余白」がある。
「余白」について言及しているものは初めてです。余白はノートを使う上でとても大切な要素だと思います。 余白を自分で自由に設定できる。余白の使い方はかなり研究しがいがありそうです。

これでもかというくらいに詰めて書いてもいいし、思いっきりスカスカなくらいに余白を作ってもいい。
あとで自由に書き込みができるというのは、ノートならではでしょう。

懐かしいキャンパスノートの表紙デザインを眺めながら、授業中にノートの余白に好きなバンドのロゴとか歌詞とか落書きしていたあの頃を遠い目で思い出したりしました。(僕だけじゃないっすよね??)
余白に関係ないことを書き込めるのって、意外に大事なことだと感じました。

落書きから素晴らしいアイデアが生まれる可能性があります。そんな可能性を秘めているのもノートならでは。
そんなことも考えると、さらに使い手として思い入れが深まっていきそうです。

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ほぼ日刊イトイ新聞の本(2)

私の記事のほぼ日刊イトイ新聞の本にトラックバックしていただいた、LOHAS?というブログのわからないことはわからないままという記事に、こんなリンクがありました。

ほぼ日刊イトイ新聞がある「明るいビル」は本当に明るい

「ほぼ日刊イトイ新聞の本」は、まだ3分の2くらい読んだところなので、このビルの話まだたどり着いていません。

実はこのビルは以前から知っていたのですが、「変な名前のビルだけど何のビル?」と思っていました。いつか調べてやろうと思っていたら、あっさり謎が解けてしまいました。

糸井重里さんのビルだったんですね。ちょっとビックリしました。たまにこのビルの前を車で通り過ぎるのですが、看板が目立っているのでいつも気になります。

田町駅発渋谷駅行き、または渋谷駅発田町駅行きの都バスに乗ると、このビルのある魚藍坂下を通ります。かなり静かな場所なので、考えを深めるにはいいところだと思います。

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ほぼ日刊イトイ新聞の本

ブログを始めて1ヶ月ほどが過ぎました。なるべく毎日書いていこうと思っていて、パソコンに向かうことができなかった日を除いては、書き込みができていて続けていけそうです。

この1ヶ月は空いた時間のほとんどをブログ研究に費やしました。いろいろなブログを見て回り、パソコンのないところでは、ブログ関係の本を読んでました。
でもブログの文章を書くということに対して、示唆に富んだ内容のブログや本にはあまり出会えませんでした。

何か刺激になる本はないかなぁ、と思っているところに出会ったのが、講談社文庫の「ほぼ日刊イトイ新聞の本」です。
ブログの本は値段が高いうえに、文章を書くという観点ではあまり役立つことは書かれていないものばかりです。
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まだ読み始めたばかりですが、ブログ本よりよっぽど役に立ちます。
しかもウェブサイトを開設という内容なのですが、ブログに置き換えても全然問題ないです。ブログを運営していくのに、どういった心構えで運営していくのがよいのかということを学べます。

今まで読んだところで気になったところを、ちょっと引用します。

「いやなら来るな」 とぼくは思っていた。ホームページはいままでのメディアではタブーだったその一言がいえるからこそ、貴重なメディアなのだ。みんなが自由に自分の歌を歌えるという一点に、これまでのメディアの限界を乗り越える可能性があるのだと思った。

この言葉は何気ないものですが、大切だと思うのです。自由に語りたいことを語るというのは、意外とできないものです。
受けることを気にしたり、アクセス数を上げようと考えたりするものです。そういったものを意識せずに書いたほうがいいものができると思います。プロではないので、それを一番大事にしていくべきでしょう。

この本を読んでいると、今まであいまいであやふやだったことが、少しずつ固まってくる感じがします。
また気になった文章があったら紹介したいと思います。

ほぼ日刊イトイ新聞はこちら

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「キャンパスノート発売30年記念 人気ブッチ斬りキャンペーン」

もうそろそろネタも尽きてきたかなぁと思い始めていたのに、コクヨがネタを振ってきました。
そのネタがこちら。波田陽区を起用して、キャンペーンをおこなっているようです。

crescent moon in western skyというブログの人気ブッチ斬りキャンペーンという記事が検索に引っかかって、このキャンペーンを知りました。

私は「AQUOS 32インチ液晶ワイドTV」がいいなぁ。
私も断然コレです。あとの二つは微妙ですよね。 ノートパソコンはすっごいうれしいけど、とってつけたような「Campus」のロゴはどうなんでしょう?ノートのデザインは素晴らしいのに、ノートパソコンのデザインは「残念!」って感じです。

それにどうして波田陽区なんだ?このキャンペーンの意図がわかりません。
若者受けはいいかもしれませんが、幅広い層に支持されている製品にしては、安直さが漂い過ぎな気がします。

せっかくデザインのよさに定評のある「Campus」ブランドなんですから、高価なものではなくてもいいと思います。
コクヨの商品で30周年記念非売品モデルみたいなものを作った方がいいような気がします。その方が記念という感じを演出できそうです。あくまで個人的な意見ですけど。

とにかくこのキャンペーン自体を、波田陽区に斬ってもらいたい気分です。とりあえず応募だけでもしてみますか。

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復刻版キャンパスノートのブログ考察(8)

昨日いよいよ復刻版のキャンパスノートが発売されているはずです。しかし文房具店に行く時間がないため、まだ購入していません。というわけで、今までどおり考察を続けます。購入は今週末になりそうです。早く現物に会いたい。

今日は”の値段blog”というブログの「復刻版キャンパスノート」の値段という記事を紹介します。

このブログは切り口が面白いです。ものの値段について書かれている記事を読むと、いろいろ考えさせられます。このブログ自体がかなりおすすめ!!一度立ち寄ってみて下さい。

最近は、ふと思いついた自分のひらめきだとか、 雑感なんかはすぐパソコンを開いて手を動かしてしまうのですが、 たまにはノートを開いて鉛筆握って…というのもいいかもなぁ。

パソコンの画面でうんうん唸っているよりは、
白紙のノートに色々書き込みながら考え事をする方が
いい案が出てくるでしょうしね。


やはりキーボードを叩くよりも、紙に書くほうがひらめくのではないかという意見は多いようですね。なぜでしょうか。
おそらく画面に向かって書くということが、頭の中では普通とはちょっと違う感覚で処理されているのではないかと思っています。
ただ物心ついた頃からパソコンに触れ、パソコンで書くということに違和感を感じない人も同じかどうかは疑問です。そういう若い人がどういう感覚なのか知りたいです。紙に書くより、キーボードを叩く方が頭が冴えると言うかも知れないですね。でもそういう人もきっといると思います。
以前の私の記事のキャンパスノートのブログ考察(3)で、ウェブプロデューサの日記というブログのキャンパスノート30周年という記事から
書くことで頭が整理され、考えを視覚化することでゴールが明確に見える。いきなり画面に向かうより、効率がよいのです。

という引用をしたように、アイデアを引き出すためにノートを活用できそうです。復刻版を購入したら、試してみたいと思っています。なにせ紙に書くほうがいい案が出るタイプなので。

あと、「自分ってこんな字を書いていたのかー」とか。
この文章を見て、これも私の以前の記事、復刻版キャンパスノートのブログ考察(2)
また「昔はこんな字を書いてたんだ」と思うことも多いです。筆跡ってあまり変わらないものかと思っていたら、そんなことないんですね。
と書いていることを思い出しました。やはり同じことを考えている人がいるものですね。 ただこれは字を書く機会が減ってそうなったのか、それとも筆跡というものが微妙に変化していくものなのか、わからないです。どうなんでしょうか?
ノートに手書きするからこそ残る想いもあるんでしょうねぇ。 パソコンの中に眠っていた5年前の日記もそれは懐かしいと思いますが、 押入れのダンボールの中の5年前のノートの感慨には絶対に勝てない。
まさにこのとおりだと思います。感慨に浸ることができるから、ノートに惹かれるのかもしれません。 これも以前の復刻版キャンパスノートのブログ考察(2)
昔のノートを見返すと「そんなこともあったな」という感じで、書いた当時のことがすぐにフラッシュバックされます。そのノートに向かっていた頃の自分と今の自分が、即座にコネクトされる感じです。この感覚はノート独特のものという感じがします。
と書いています。これを書いたあと、同じような感覚を感じるものがあるか考えてみたのですが、やはりノート独特の感覚という気がします。 ルーズリーフではノートほど強く感じません。同じような感覚を感じるものに、手帳、写真のアルバムなどがあります。これを考えると、本のように紙を綴じた形状のものというのが、ポイントの一つになるような気がします。 今はあとで見返して、少しでも役に立つノートを書けたらいいなと思っています。
一冊100円ちょっとの白紙のノートにも、 自分の人生の記録の断片を記録することができて、 白い部分が減っていき、自分の色に染まるわけです。 何年か後にはものすごい価値になっているかもしれませんね。
また名文がありました。詩的な文章が出てくるところが、キャンパスノートのブログの特徴といえます。このような文章に出会える楽しみで、この考察を続けているのだと思います。 自分色に染め上げたノートを作り上げるのが、今の私の夢です。未来の自分にものすごい価値のあるものにできれば、たとえ他人には少しも価値がないものだとしても、それでいいのです。

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